人はなぜ生きるのか

科学は人類の生物的由来、物理的由来を明らかにしつつあります。でも科学は人間存在の意義、人の生の価値については明らかにしてくれません。人は一体何のためにこの世に生まれてくるのか。人の生に何の価値があるのか。それについて、たとえばお釈迦様やイエス様など宗教の開祖は明らかにして下さってるのでしょうか。実は自分が読む限り、経典にも聖書にもどこにもその答えは見当たらないのです。どう生きるべきか、は確かに書いてあります。しかし何故生きねばならないか、は書いてないのです。哲学書はどうでしょうか。難しい言葉が並んでいるがどうも的を得た言葉は見当たらない。自分は子供のころから、人が生きるその理由がどうしても知りたかったのです。気がつくと生きるべく方向づけられている、この自分は何故生きねばならないのか。生きていることがあまり楽しくない人間なら、普通に考える事なのかもしれませんね。でも教えてくれる人は誰もいなかった。教えてくれる人がいたらどんなにありがたい事だったでしょうか。自分の生の意義を知りたい。そして今、それを知りたい若い人、昔の自分のように心の中であえいで苦闘している人がいるのだとしたら、私は自分の知りえた事をその人にお伝えしたいと思います。もちろん真実の保証などできるはずもないのですが。受け取る受け取らないはあなたの自由です。
人は何のために生まれてくるのか。その目的は、知の聖化、情の純化、意の強化、のためなんだそうです。人の心の働きを分類すると、知性、感情、意志(意念ともいう)に分けることができ、この物質世界に生まれてくる目的は、知性を聖化する、感情を純化する、意念を強化する、それが生まれてくる目的だというのです。
知の対象にはさまざまなことがらがあります。たとえば博打が好きな人もいるでしょう、狩りが好きな人もいます。音楽が好きな人もいれば、機械が好きな人もいます。その人その人の進化の度合いによってその知の対象は聖化していくということです。
感情にはいろいろな働きがあります。怒り、悲しみ、嫉み、喜び、恨みなど、その感情はなんらかの対象に触れ、認識することによって湧き上がってきます。人は進化するにつれて、それを自己コントロールし純化するようになるのです。
意志(意思ではない)の強さは人それぞれです。強い人もいれば弱い人もいます。人それぞれ向き合う困難の度合いは相対的なものだからです。人は進化するごとに乗り越えられる困難が増し意念が強化されていきます。
そしてその知、情、意を統合しているのが魂といわれるものなのだそうです。
これは無論、非物質的世界、生前の世界、死後の世界の存在を前提としています。つまりあの世ですね。自分はあの世は存在すると思っています。霊的世界と言ってもいいですね。なぜならこのように考え、体験を積み、成長してきた自分という精神的存在が単なる脳の作用にすぎず、肉体の死とともに消えて無くなるとは到底思えないからです。精神的存在の自分は永遠に続く。人生にはそれ自体に目的があり、死後もその目的は永遠に続く。自分の個性、自分以外の人それぞれの個性もさまざまです。たとえば自分の父や母、その人たちの個性が死とともに消え失せたとはとても思えないのです。個性はなんらかの理由があって存在している、あるいは存在していたはずなのです。
科学の隆盛とともにあの世を信じない人が多くなりました。しかし科学は我々が存在する宇宙のどれほどを解明したのでしょうか。宇宙の質量の8割以上はダークマター(暗黒物質)だという。実は何がなんだかわからないから暗黒物質というのです。つまり科学はまだ宇宙の物質の2割も解明していないのです。プレデターという映画はご存知でしょう。異星人は赤外線センサーで地球生物を見ている。かたや人間は光学シールドで防御されてる異星人を見ることができない。しかし見えないからといって存在しないわけではない。現状認識できないからといって、絶対存在しないと決めつけるのは、愚かな人間の思い込みではないでしょうか。霊的世界は我々がいる物質的世界とは波動の波長が違うのだといわれます。最新の物理学、超弦理論では最小世界は粒子ではなく波動であって、しかもいくつもの世界が並行的に存在しているのだという。いつの日か科学は霊的世界の存在を明らかにする日がやってくるのかもしれません。しかもそう遠くない日に。その時科学は宗教と統合されることになるのかもしれません。

孤独な人に贈る言葉

釈迦の言葉

ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身を整えて、林のなかでひとり楽しめ。(ダンマパタ305)

こんにち、利益をめざさない友は、得難い。自分の利益のみを知る人間はきたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。(スッタニパータ75)

愚かな者を同伴れ(みちづれ)とするな。独りで行くほうがよい。独りで歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。林のなかにいる象のように。(ダンマパタ330)

孤独を恐れるこころを捨てましょう。利害の伴わない友人は得難いものです。結婚し家庭があるから必ず幸せとは限りません。憎しみあう生活がやってこないとは限らないのです。

それよりも

あらゆる生き物に対して暴力を加えることなく、あらゆる生き物のいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。いわんや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。(スッタニパータ35)

楽しみで釣りをしてはなりません。キャッチアンドリリースなど欺瞞です。自分が釣り上げられて御覧なさい。巨大な金属の針が自分の上あごに突き刺さったその痛み、苦痛がどれほどのものか。死んでしまう魚がどれほど多いか。愚かで傲慢な人間は想像することさえできないのです。

日本の人口減など心配する方がどうかしてます。江戸初期約1700万、明治維新約3500万、大正時代約5600万、昭和終戦時約8000万、昭和45年1億人突破、それから40年後2010年に1億2800万、この狭い国土にこれ以上必要でしょうか?本来この国土が養える人口をとっくに超えています。人口減を問題にする人は移民を増やし日本を混血化する策略のためにそう言っているのです。

朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。(スッタニパータ37)
ただし、
われらは実に朋友を得る幸せをほめたたえる。自分よりもすぐれあるいは等しい朋友には親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。(スッタニパータ47)

交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。(スッタニパータ36)
子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまとわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。(スッタニパータ38)
ただし
もしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。(スッタニパータ45)
しかしもしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得ないならば、たとえば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。(スッタニパータ46)

すべてはあるがままに。恐れの心を捨てましょう。不満の心を捨てましょう。今の自分を肯定しましょう。よく言われる言葉ですね。人は生まれる時も独り。死ぬ時も独り。と